心構えや振る舞いまでイタリア流!

16年に渡りイタリアで研鑽を積んだリアル・トスカーナ。 ラ・トラットリアッチャ 河合鉄兵さん

インタビュー
東京都
代官山・恵比寿・広尾
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イタリア料理
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料理人インタビュー
東京イタリア料理
東京で世界を巡る
東京メトロ日比谷線
16年に渡りイタリアで研鑽を積んだリアル・トスカーナ。 ラ・トラットリアッチャ 河合鉄兵さん

おいしんぐ!編集部

各国の大使館が点在し、インターナショナルで洗練された街として知られる広尾。その広尾駅から徒歩3分、外苑西通り沿いの建物の2階に、イタリアを愛する人々が集う本格トスカーナ料理専門店がある。

階段を上り、扉を開けると目に入るのは、白い壁に落ち着いたダークブラウンのテーブル、温かなオレンジ色のライト、イタリアの地図が描かれた大きな黒板。またところどころにトスカーナのリストランテやトラットリアを思わせるメニューや写真、料理本や小物なども散りばめられている。

奥に構えるのは、料理の様子がよく見える大きめのカウンターキッチン。そこに立つのが、オーナーシェフの河合鉄兵さんだ。イタリアで16年という長きにわたる経験を積み、2018年にここ広尾で自身の店をオープンさせた。

常にフットワークは軽く、頭はやわらかく、そしていつでも楽しく――16年の間に染み付いたイタリア人流の生き方を大事に、独自の方法でファンを増やしてきた河合シェフ。その半生とともに、イタリア流のレストランのあり方、料理についての心構え、そして料理人としての働き方について、じっくりと話を伺った。

内観 おいしんぐ!編集部
河合シェフがイタリア修行時代に使っていた料理本や、当時の写真なども飾られている。


内観 おいしんぐ!編集部

外観 おいしんぐ!編集部

東京メトロ日比谷線・広尾駅から徒歩3分、外苑西通り沿いのビル2階にある。

 

20代前半、給料を飲み代に注ぎ込んで……

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ブルーのコックコートが似合う河合鉄兵シェフ。料理はもちろん、働き方やライフスタイルも本場トスカーナ流。

——河合さんはなぜ、料理人の道に進まれたのですか?

河合:ぼくは京都出身なのですが、父がサラリーマン、母が看護師で、夕食の時間に両親が家にいないことが多かったんです。妹と弟がいるので、自分たちでご飯を温めて食べたり、休みの日に目玉焼きを作るぐらいのことですが、小学生のころからやっていて。漠然と「料理を作れる大人になりたいな」っていう思いはありました。

高校卒業後は進学せず、手に職をつけたいなと思っていたんです。調理師か美容師、建築系の専門学校に進もうと思って、それぞれの説明会に行って最終的に選んだのが京都調理師専門学校でした。

——イタリア料理を選んだのはなぜですか?

河合:和食、中華などまんべんなく興味はあったんです。高校3年からは近所にあった高級中華料理のお店でバイトもしました。皿洗いで入ったのに、僕が調理師学校に行っていることが知れると、途中から「人が足りないからキッチンに入れ」と言われて(笑)。アルバイトながら、にんじんを花の形に切る技とかを教えてもらったりしましたね。

調理学校2年生で進路を選ぶにあたって、イタリアンにしました。理由は、当時の流行りですね。テレビ番組「料理の鉄人」が人気だったり、和食やフレンチだけじゃなくイタリア料理のシェフたちがメディアで注目されたり本を出したりしていて、何となくかっこよく見えてしまったんです(笑)。

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——かっこよさそう、が理由だったんですね。

河合:卒業してから、京都の老舗イタリアン「タント・タント」で3年働きました。修行もなかなか厳しい時代で、朝8時から深夜まで働いていましたね。最初は表(サービス)からスタートして、2ヶ月後にはキッチンに入らせてもらって。1年後に新店舗を開店する際にはまた表に回って新店のサービススタッフたちのまとめ役を任されたりしました。

——21~22歳ぐらいの若さで、まとめ役を?

河合:たまたまそのとき中堅のスタッフが抜けていて、他に誰もいなかったみたいです。3ヶ月ほど後輩たちを教えて、落ち着いてから元の店舗のキッチンに戻りました。系列店がいくつもあるような店だったので、その後もちょこちょこ、人が足りない店舗や忙しい店舗にヘルプで行くことが多かったですね。

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おまかせ前菜の盛り合わせ3800円(2名分)。生ハムやサラミ、季節野菜のマリネ、豚バラを16時間ほど低温で火入れしたポルケッタ、自家製のソプレッサータ、豚肉のにこごり、鶏レバーのパテ、クロスティーニ、チーズなどを心ゆくまで楽しめるひと皿。


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——サービスも経験しているしキッチンもできるから、お店としても河合さんを重宝していたのでしょうね。

河合:そういう意味では、器用なほうかもしれません。そのころは何でも言われたことをやっていたので(笑)。

——そこでの経験はきっと、今に活きていますよね。

河合:サービスを勉強できたことは活きています。キッチンで調理をするにしても、サービスのことは常に意識してやらなきゃいけないと思いますので。

——「タント・タント」ではイタリア郷土料理を作っていたのですか?

河合:いえ。まだ80年代のイタリアンブームのときで、まだ郷土料理に特化するような店はなかった時代です。ジャンル的には広く、いわゆる地中海料理を作っていました。


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——3年勤めた後は?

河合:大阪か東京でもう1店舗ぐらい経験してからイタリアに行きたいなと考えていたんです。その話を父にしたら「どうせ行くなら遠回りしないで、先にイタリアに行った方がいい」と言われて。それもそうだなと思い、24歳になる手前でイタリアに行きました。

——お父さんのアドバイス、素晴らしいですね。

河合:でも当時、ぼくはびっくりするぐらい貯金がなかったんです。初任給は手取り11万だったし、そのお給料を全部飲み代に使っていて。仕事の後、0時過ぎてからでもやっている店……自分より10歳ぐらい上の人たちが飲んでいるような祇園エリアのお店に、背伸びをしてでも行っていましたね。

ジャンルも問わず、和食の店とかバーとかいろんなお店に行ってはお金を使って、そこで飲食店のあり方みたいなものを学びにいっているような感覚でしたね。この店に何を求めてお客さんが来るんだろう? 雰囲気なのか、料理なのか? そういう経験がすごく勉強になりました。


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フィレンツェ風ニョッキ(ラグーソース)2000円。通常のニョッキと比べ、つなぎの粉の量を圧倒的に少なくした“軽さ”が特徴。上にはグラナ・パダーノ・チーズをたっぷりとかけて。


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——23歳で、そんなことをしていたとは!

河合:まあ、お酒も外食も好きだったので。お金が続く限りは、コアなお店に通っていました。そんなこんなで、留学するにも貯金がなかったんです。レストランを辞めてから10ヶ月間、ラーメン屋、居酒屋、コンビニと3つ掛け持ちアルバイトをしましたよ。必死でやったら、レストラン時代の倍ぐらい稼げました(笑)。

 

料理書を買い漁ったイタリア修行時代

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——イタリアでの行き先は、どのように決めたんですか?

河合:京都にある語学学校が斡旋してくれたのがローマ、ミラノ、フィレンツェ、シエナの4都市だったんです。「田舎にいきたい」と言ったら、だったらシエナだと言われて。行く前に10時間のイタリア語個人レッスンだけ受けて、ほぼしゃべれない状態でシエナへ行きました。

最初はお金もないし、半年後にもし仕事がなかったら日本へ帰ろうと思っていたんです。語学学校に行きながらシエナでいろいろと食べ歩きをして、最終的にいいなと思っていた「ダ・エンツォ」という店で働かせてもらえることになりました。片言で「タダ働きは嫌よ。家も用意してね」と伝えて、お給料もちょっともらいながら働きました。

——しっかりされていますね。そこはどんなお店だったんですか?

河合:27席ぐらいのリストランテで、シエナでは珍しく魚介や、ポルチーニとかトリュフなどのキノコを使った料理が売りの店でした。それに加えてシエナの郷土料理もあって。最初は料理補助だったので、シェフのそばで見せてもらって、それから徐々に一緒にやらせてもらいました。「ダ・エンツォ」は今も健在で、オーナーは70歳で新店を開けようとしていますよ。

お店の人にはかわいがってもらって、休みの日には遊びに行ったり、夏場はランチ後の休憩時間にプールに行って、お酒を飲んでから夜に戻って働くという生活をしていました。おかげでイタリア語もわりと早い段階でできるようになりましたね。そこには24~25歳の、2年間ほどいました。

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チンタ・チネーゼのラグーソースのパッパルデッレ2300円。しっかりと脂を感じるトスカーナ産ブランド豚をラグーソースに。爽やかなローズマリーとの相性も抜群。

——いいお店に巡り合ったのですね。

河合:その後いくつか電話して店を探していたのですが、ワインの業者さんに紹介してもらったフィレンツェの「カフェ・コンチェルト」から返事がもらえました。ぼくが入ったときには店名が「タルガ」に変わっていましたが、当時ですでに20年以上続いていて、芸能人も来るような小洒落た店だったんです。

オーナーシェフはニューヨークやパリで働いてきた人で、フィレンツェ料理に限らずいろんな料理を出していましたね。今はもう閉店してしまいましたが、そこに26歳からの3年半ほどいました。

——3年半とは、長いほうですよね。

河合:当時のイタリア人シェフと合わなかったので「やめようかな」と話していたら、オーナーから「彼を追い出すから君にシェフをやってほしい」と言われ、労働ビザまで出してもらえたんです。本当は長くいるつもりじゃなかったのですが、役職も上げてもらい、お給料もしっかりいただけていたので……。

——すごいですね。ではシェフとして、周りのスタッフを束ねる立場に?

河合:はい。そのときはイタリア人のキッチンスタッフ4人がいました。ぼく自身まだ知識も浅いし引き出しもない中で、メニューを1ヶ月ごとに変えなきゃいけなかったので、本当に大変でした。自分には経験がないから料理書を買い漁って「今度はこれを試してみよう」「次はこれだ」とやっていました。そのときの本は大事に持って帰ってきて、今もそこ(キッチンカウンターの上)に飾ってあります。


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——お休みの日も勉強を?

河合:休みが日曜のときは、だいたいサッカーを見に行っていましたね(笑)。シエナのスタジアムの年間パスポートも持っていましたし。ちょうど中田英寿選手がフィレンツェにいた時期で、「タルガ」にも一度いらっしゃいましたよ。店を選ぶときのぼくの唯一譲れない点は、サッカーを見るために日曜が休みなことでしたから。

——イタリアらしいライフスタイルですね。

河合:いいですよね。毎日、昼の仕事が終わったら家に帰って2~3時間休憩していました。買い物をしたり、シャワー浴びたりしてリセットして。もちろん昼寝はマストでしたね(笑)。


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トスカーナを代表する「フォンテルートリ・キャンティ・クラシコ」ほか、イタリアワインを揃えている。グラスは各700円~。

 

ハイテク機器を駆使して、厨房で実験!?

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——そのお店の後は、どうされたんですか?

河合:日本に1ヶ月一時帰国してから、またイタリアに戻りました。働く店を探しながら半年ぐらいは日払いアルバイトで、いろんなお店の調理ヘルプをしていました。お店で人が足りないときに呼んでもらって「今日はここのポジションをやって」と言われた仕事をやるような。夜なら60ユーロ、昼夜両方なら120ユーロぐらいの日払いなので、普通に働くよりも収入がよかったですね(笑)。この期間で、トラットリアのハードな働き方も体験することができました。

——またもや、河合さんの器用さを活かした働き方ですね。

河合:その後に入ったのが「リストランテ・エノテカ・パーネ・エ・ヴィーノ」。有名なワイン「サッシカイア(SASSICAIA)」が飲める店として一時期ブレイクし、ワインバーをフィレンツェで確立したような店です。ワインバーで有名になってから、レストランになり料理も出していました。現在はオーナーさんが高齢で、閉店してしまったのですが。


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——どんなお店だったのでしょうか?

河合:ここは家族経営で、サービスに旦那さんご兄弟、厨房に奥さんと、長く働いているイタリア人シェフがいました。上下関係がなくみんなが同等みたいな感じで、大まかなポジションはあるものの全員が一斉に前菜を作って、セコンド(メイン)を作って、パスタを作って……と、忙しいところからやっていくようなスタイルでした。ここには29歳からの6年半ほどいましたね。

——6年の間、飽きることはなかったのでしょうか?

河合:6年もいたのは、途中からリーマンショックによる不況で移動がしづらくなってしまったというのもあるのですが……。ただ、季節ごとの「この時期にはこの料理」みたいな伝統スタイルの料理以外は、みんなでアイディアを出し合いながらいろんなことやっていたので、飽きることもなかったですね。いま振り返っても、それほど長くいた感覚はありません。

——河合さんご自身のお店に一番影響を与えたのは、どのお店ですか?

河合:1軒目の「ダ・エンツォ」と、最後に働いた店ですね。とにかく1軒目は何もかも初めてで、それまでは日本のイタリアンしか知らなかったので「ぜんぜん違うじゃないか!」と。今みたいに郷土料理を押し出しているような店も日本にはありませんでしたし。1軒目はとくに、箱いっぱいのポルチーニを1週間に10箱とかバンバン使うような店でびっくりしましたね。


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シエナ風トリッパ(ハチノスのトマト煮込み)2500円。トリッパに自家製サルシッチャを加えて煮込んでいるのが特徴。

——もうひとつ影響を与えた、最後に働いた店というのは?

河合:帰国する前にトスカーナ以外のエリアで働こうと思ったのと、最後ぐらい星付きの店も経験しておこうと思って、主にメールで履歴書を送っていったんです。それで入ったのが、エミリア・ロマーニャ州のレッジオ・エミリアにある「リストランテ・カ・マティルデ」というお店です。街から離れたど田舎、牛小屋しかないようなところで、5~6部屋の宿もあって……ほかには何もなく、完全なる軟禁でしたね(笑)。そこで2年半働きました。

——そこではどんな影響を?

河合:シェフのアンドレアさんがすごくハイテク好きな人だったんです。あの規模のレストランでは、おそらくイタリアで一番ハイテク機器が揃っていると思います。スチームコンベクションオーブンがあるのはもちろん、彼は急速冷凍機器の企業と契約していて、その使い方を教えるイベントに出たりしていました。新しい機器が出たら300万円ぐらいするものでもばんばん買うような人で、それを扱うプロフェッショナルでしたね。

盛り付けについても学びました。「作り込みすぎた盛りつけは不自然だからだめだ。頭で考えて、どこに盛ったらいいかわからない場合は目をつぶって投げるぐらいでちょうどいい」と。それがアンドレアさんの教えでしたね。はじめは全然盛り付けもさせてもらえませんでしたよ。シェフの盛り付けを見ながら、その感覚を学んでいきました。

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——ユニークなシェフだったのですね。

河合:店のメニューにはクラシックな伝統料理のコースがあり、それとは別に、彼の好きな新しい料理のコースもあるという2本立てでした。もちろんクラシックな料理を作るときでも、いかにハイテク機器を使ってクオリティを上げるかを、彼は考えていました。土日祝日だけランチがあり、それ以外は夜のみの営業だったので、平日の昼は朝から晩までずっと仕込みでした。ぼくはそこでスーシェフをやらせてもらっていたので、仕込みの時間には彼と一緒に実験をしていましたね。

——え、実験ですか!?

河合:彼にはハイテク機械の使い方の講習会をする仕事もあったので、その準備のときに「この機械を使うなら、どういう食材でどういう料理がいいと思う?」みたいな相談に乗っていました。「何度で何を何本茹でたらこうなる」というデータをひたすら取りながら、ふたりで味見をして、相談をして。朝から晩まで料理と向き合うという意味では、すごく贅沢な時間でしたね。


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——とてもいい経験をされたのですね。

河合:そのときにやっていた低温調理の技術は、いまもフル活躍していますね。その店では大量の素材を一度に調理して、冷まして、四角い箱に入れてきれいに真空パックし、急速冷凍をかけ、冷凍庫内に本のように隙間なくびっちりと収めていくという感じでした。大量な低温調理をしておくことで、結局は自分たちの働く時間を短縮できるんですよね。家で寝ている間に火を通しておいたりできるわけですから。

——なるほど。だから河合さんのお店は、自粛期間のときにテイクアウト用の冷凍料理を販売するスピードが早かったのですね。

河合:店で出す料理用と持ち帰り用とで内容は違いますけれど、たしかにもともと大量の冷凍を普段からやっていたので、比較的すぐにできたというのはあるかもしれません。真空パックすることで、家でパスタにあえるだけとか、温めて煮込み料理をそのまま食べられるとか、できるなと思って。お弁当にすると食中毒の心配などもでてきますし、味をブレないものにするには、冷凍が一番なんですよね。

 

フットワークは軽く、頭はやわらかく

おいしんぐ!編集部

——16年もイタリアにいたら、日本へ戻らなくてもいいかなと思いませんでしたか?

河合:はい、本当はイタリアでお店をやろうと思っていたんです。でもリーマンショックの翌年ぐらいから不況が続いていて、イタリアの歴史あるお店がどんどん閉まっていくのを見ていたんですね。レストランだけじゃなく、食器屋さんや絨毯屋さんも。これはちょっと怖いなと思ったんです。周りからは「40歳までに帰ってこないと日本で仕事がないぞ」と言われていたこともあり、39歳で帰国しました。

——そしてご自身のお店を立ち上げられるわけですが、広尾を選んだ理由は何ですか?

河合:どっちかというと、土地勘があるのが港区ぐらいしかなかったんです。たまたま広くて安い物件が見つかったので、ここにしました。


おいしんぐ!編集部

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インテリアは、イタリアで出会ったジュエリーデザイナーの奥さまがスタイリング。


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——お店のコンセプトは?

河合:トスカーナのトラットリアに入ったときに食べられるような料理ですね。うちのグランドメニューには、向こうのトラットリアにあるようなものばかりです。これまでイタリア人を相手に作り続けてきたから、それをそのまま続けて成り立つのであれば、それに越したことはないなと。

先日もイタリア人のお客さんが食べに来てくれて、店の造りや料理から「本当にイタリアみたいだね」って話してくれて、すごく嬉しかったですね。うちのお客さんはイタリア人やイタリアに住んでいた人、イタリアが好きで毎年通っている人も多いです。今回の緊急事態宣言が開けてから初めて来てくれたあるお客さんは、「イタリア旅行に行けなくなったので食べに来ました」とおっしゃっていました。

——オープンして2年経ちますが、いかがですか?

河合:「ミシュラン東京2020」のビブグルマンに載せてもらえたりといい感じだったところに、コロナウイルスのことは予定外でしたね。足をひっかけられたみたいでしたけれど……でも、いろんなことを見つめ直すいい機会でした。

お店のあり方もそうだし、グランドメニューも再度レシピをしっかり見直して、食材を変えて、グレードを上げて、さらにいいものを作ろうという気持ちになりました。来週からは都内各所でランチタイムにキッチンカーもやる予定です。

——困難な状況にも臨機応変に対応していく姿勢が、素晴らしいです。

河合:イタリア人ってフットワークが軽いし、頭もやわらかいんです。そのあたり、ぼくもイタリアに長く住んでいたから環境の変化に慣れているのかもしれないですね。「これがだめなら、こっちをやろう!」って。


おいしんぐ!編集部

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——今後はどんなお店にしていきたいですか?

河合:いま、うちのメインのお客さんは50代ぐらいの層なんです。ゆっくり食事を楽しみたいという大人の方々が来てくださっているので、ぼくの理想的なかたちではあります。今後もそこがしっかり固定して続けていけたら、それ以上はなにも望まないですね。

——店舗を拡大したいという思いなども、ありませんか?

河合:そんなに忙しくなっても困るじゃないですか。ゆっくりしたいし、いつもみっちりと働くの、いやなんですよ(笑)。ぼくは日本に帰ってきてからも、イタリアにいたときと働く時間帯を同じにしています。ランチが終わったら家に帰ってしっかり休憩して、夜の営業前に出て来るスタイル。それこそ低温調理や冷凍の技術を使って、いかに休憩時間を長くとるかも大事ですね。

——働くスタイルもイタリア流なんですね。

河合:うちのお客さんでも、イタリア人のようにお昼からワインを飲まれる方もけっこういますね。ぼくもそういうスタイルは大好きです。

 

では、最後に…。
河合さんにとって、 「おいしい」とは何でしょうか―—?

おいしんぐ!編集部

河合:おいしいとは料理の味うんぬんじゃなく、総合的なものですね。レストランであれば、空間があり、料理があり、サービスしてくれる人間があり、その調和ががっちりはまってはじめて、「おいしい」になるのだと思います。料理だけがおいしくても、なんの意味もありません。ちゃんとサービスの人間がコミュニケーションをとって、お客さんを満足させられなければ。

イタリアのサービスマンって、お客さんの心のつかみ方がすごいんですよ。注文していないお料理を勝手に出してきて、「ちょうど出来たてだから、おいしいから食べろ!」みたいなね(笑)。お会計も適当な店だっていっぱいありますし。うちも、日替わりのメニューは黒板に書いて持って回るのですが、それもお客さんと会話がしたいからなんですよね。お会計が適当とまではいきませんが、うちもイタリアのスタイルで楽しくやっていけたらいいなと思っています。

企画・構成/金沢大基 文/古俣千尋 写真/倉橋マキ

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